答えを探し求めるしかない……

お盆も過ぎましたがまだまだ暑い日が続いております。
福島から戻ってきてやっぱりこっちの毎日はじめじめしていて暑苦しいし、エアコンはつけっぱなしだし、夜空に星は辛うじてしか見えないし。
という私は福島出身というわけではないのですけれど。

 

遠くに行く、ということがわたしは基本的にはあまり得意ではないのですが、それでも遠くに行ったり旅に行くと必ず何かしらの「気づき」があるので、そういうことが遠くに行くことの魅力のひとつだと思います。
今回もいくつか考えさせられることがあったのですが、その中のひとつを。

 

 

それをするにはふさわしい時期が存在する

 

 

今からでも遅くない。やろうと思った時からいつでも取り戻せる。という考え方も基本的には持っているというか、わたしはどちらかと言えばそういう考えかたの方が強く持っているのですが、どうしてもそうはいかない部分があるのもまた事実だと思います。
ままごとや砂場遊びをするのにふさわしい時期(楽しいと感じる年齢)、ランドセルを背負って学校に行くこと、中学生、高校生、それぞれにその時だから行って楽しい場所ややって楽しいことがあり、また大学生くらいだから楽しいこともあってその時々変化していきます。そういったようなことです。
子供向けの遊具で大人が遊ぶわけにはいきません。大抵はそもそも思わないと思うのですが、子供のある一定の年齢の頃に遊ぶからそれがとても魅力的で楽しいことになるわけで、それはずっと続くわけではなく、ある一時与えられた限定的な、でもその瞬間には絶対的に近い価値があるわけです。
そしてそれは当たり前ですが過ぎてしまったら取り戻すことはできません。ある種の価値があったというような記憶だけ残して、今は無価値なものだったり、それ以外の何かに変わってしまったりする。
そういうことを生きている間にきっと繰り返していくのだと思います。
「子供の頃にもっと勉強しておけばよかったな」という言葉を聞かない人はいないと思いますが、あれもそういうことなのでしょう。
子供の頃は全くぴんとこなかったのですが、大人になったら大勢の大人が思うようにまたわたしもそう思いました。やっとああこういうことだったのかと思いましたが。

 

ですが今回の話はそういうことで終わるわけではないのです。
その時に「やりたい」と思っていたこと、その時だけの価値のあることをどういうふうにやらなかったか、もしくはあきらめたか、ということによってその後の後悔の種類が変わってくるということです。
他人から見ればくだらないことかもしれませんが、そのくだらなかったり、普遍的でどこにでも転がっていそうなことに囚われてしまうというのはおかしいことでも珍しいことでもないような気がしました。そういう一見普通のようなことが幸せの根底にはどうしても含まれると思うからです。
その人にとってそれがある種の価値であれば、それはどんなにくだらなく見えても必要なことなのだと思います。
必要だと自分で判断し、それによって失敗したりすることもあるかもしれません。その時は落ち込んだり悲しんだり傷つくこともあるかもしれませんが、それは永遠ではないと思います。自分で選択することの良さはそういう部分だと思います。その時にはそれが必要だと思ったのですから。
ですが、それを必要とする本人が干渉できない部分で奪うということは、どこまで続くかわからない後悔を抱えることになるのではないかと最近考えるようになりました。
ここのところが本当に難しい部分だと思います。

 

できなかったことを誰かのせいにして言い訳することはしてはいけないことだと思うし筋違いです。
もしかしたらできないようにと止めた相手も、本当にそれはよくないと思ってそうしただけかもしれません。心の底からそう思ってそうしたのなら必ずしも責められることでもない気もします。
もちろん絶対的にやってはいけないことも存在します。人を傷つけたり迷惑をかけるようなことです。
ですがそれ以外のことで、個人の考え方による価値や裁量が入ってしまった場合です。
それを考えた本人がフラットに考えられているかは本人にも他者からも判断しにくい。だけどそれをたとえば絶対的な関係性で行使された場合。たとえば小さな子供と親のような。

 

可能性を断ち切ってしまうことの恐ろしさというのを考えずにはいられませんでした。
それをやるべきふさわしい時期が存在するのに、それをその時に自分では干渉できない部分で奪われてしまったら?
それはもうずっと後悔を抱えていくしかないのではないか?
取り戻すために同じことを今からすればいい。という意見ももちろんあります。ですが果たして最適だと思った時期からずれて価値や考え方が変化した現在同じことをしたとして同じ結果が得られるかという疑問があります。
だから可能性はゼロにしてはいけないのだと思いました。人の心は可視化できないのだし、難しいのだと思いますが。
単に奪われたとか、恨むとかそういうことではなく、取り戻せなくなった根底にあるべき何かの空洞をどうするべきか、それとどう向き合っていくべきなのか、ということに結局は行きつくのかもしれない……。という。
終わってしまったように見えることでもそれにさえ更なる答えを求めていかなければならないというのが生きていくうちは。

 

可能性をゼロにしてしまうことの恐ろしさ。
自分にとって大切ではないこと(不要にさえ思えること)であったとしてもそれは誰かの価値かもしれない。
だからその可能性を奪える立場にあったとしても、それを奪ってはいけないのだということですね。それを得るにふさわしい時期は存在し、その後悔を抱え続け、答えを探し求めるということになることもある。それはそれで新たな気づきなのかもしれませんが、幸福の根底が欠けてもいいと思える人なんていないんだから、それをすべて奪うようなことはよくないのではないかと思いました。
絶対的にいけないことではない限り、どんな結果になろうとその価値に触れるチャンスはあった方がいいのではないでしょうか。
何も物理的、金銭的という単純なことだけではなく、思考や発言や、そういうことです。
それだけのことが、それだけのことでは済まされなくなる恐ろしさが存在するような気がしました。
小さなことかもしれません。でも小さなことかもしれないから怖くなります。そういうことが転がっていて、何か小さなきっかけで、長い年月をかけて大きな何かに変わってしまっていたりする。

 

……というようなことを永遠と考え、他にもいくつか。
やっぱり普段見ない景色の場所で普段しないことをするといろいろと気付かされ考えさせられます。
よくも悪くも。ですが、わたしはそう悪くもないと思います。
腰は重いけれど、こういうことをひとつひとつ考えていくのも生きていくことの楽しさですね。きっと。
よい面だけでも悪い面だけでもきっとよくない。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。