みたされていてはいけない

よかれと思ったことが……ということはよくあることです。

 

トマトの状態がどうやら栄養過多じゃないだろうかと判明した今週。
小さいポットからすぐに大きな鉢に移したことがよくなかったらしいです。栄養を一気に吸収できて蔓(枝?)ばかり伸びてしまうらしい。
なるほど。確かに最初ぐんぐん伸びたわりにそれ以降はという印象だった。

 

水をあげすぎてはいけないという部分もそうですが、足りない、くらいで止めないといけないとはなんだか耳が痛い話です。
「充たされてはいけない気がする」とは常々思っていて枯渇しているくらいがいいとは思いますが、植物も同じかと思うとリアルなものです。
足りなくなることからのあがきに本気が出ると言いますが、結局追い詰められないと発揮できないと思うと人間的には情けないような。
火事場の馬鹿力的なことですね。
では具体的に言う枯渇とは……ということに関しても、基準が難しいと思います。
あくまでぎりぎりの位置というのがきっとポイントであって、一歩間違えれば本当に枯れてしまう状態だと思うのです。
そんなに都合よくはいきませんね。当たり前ですが。

 

ただ気軽にトマト代節約と言って始めたトマト栽培が思わぬ学びと新たな思考の泥沼化を連れてくる。
途中トマトに優しい言葉をかけてあげたら? とかいうアドバイスももらったけれど、それってつまり、応援してるからテスト頑張って! 的なことですよね?
応援だけでそう簡単にいくかってことです。根性論は自分に対してしか発揮できません。トマトはあくまで他者。
この一年近く、すっかり植物とお友達になりました。メンバーも増えました。
園芸店に通い、せっせと土や肥料や鉢を買ってきて、成長したのを見てはにまにましてひとまわり大きな鉢に植え替え、甲斐甲斐しく世話をし、無言の会話をし……。
会話はもちろんできないのですが、結構植物たちが教えてくれることも多いわけで、気付きもあるわけで、本当に何もないことなんてないんだなあと感じました。
心の声に耳を澄ませなければいけないものが好きなのでしょうね。
枯れかけても一生懸命蔓を伸ばし、芽を出そうとする姿もいいです。植物や動物を見ていて一番感動する部分というか、学ぶべきは、挫けることのなさと、最後まで生を全うしようとする、生に対するひたむきさなのかもしれません。
生き物なら本来あるべき姿なのかもしれませんが、そういう生きる姿勢というのは客観的に見せられて、一切余分な感情がない本物というものを知る。
諦める、ということがない部分は見習わなければいけないとひしひしと感じます。

 

人間だから弱気にもなるし逃げたくもなるし諦めたくもなるけれど、疑いなんて僅かもなくあまりに透明にただ前だけを見つめる姿というのは生きていることの美しさのひとつだと思います。そしてそういう美しさに心が震える。
花なんて咲こうが咲くまいが、関係ないのです。本当は。

 

というわけで今週もトマトを見守ることにします。
育てたい花をお店に行くたびに指をくわえて見ていますが、もう育てるスペースがなくなってきたのが最近の悩みです。
花はいい。こんなに花に癒される日が来るなんて思わなかったなぁ……。

 

皆さま、素敵な週末をお過ごしください。