伝えたい気持ち

あっという間に2月ですね。
節分も終わり、次のイベントは新和座公演のデスマーチとバレンタインです。
去年は欲しかったチョコを買い逃してしまってよっぽどショックだったようで、このわたしがネットで!この機械苦手のわたしがネットで!買ってしまいましたよ。
気合入ってるねー。この世で一番大好きな(キモイ。でも本気に受け取らないでくださいね)自分へ買いました!
自己チョコです。無論わたしの脳内では「ジコチョコ」と変換されています。際どいでしょ。流石にあの「じこ」(察してください)にはできない……。

 

ふざけてばかりもいられないのでこの辺から真面目に書きます。ふざけててもふざけてるの似合わないの? か、本気で受け取られるから困ります。
家族へのチョコレートも買いに行きました~。普段お世話になっている感謝の気持ちチョコです。
毎年凄い人ですが、今年も凄い人で、年々あの中を歩き回れる戦闘能力がなくなってきたので、さっさと決めてさっさと退散しました。
チョコレートってなんであんなに高級なんですかね? そしてあんなに人がいますけれど皆さま誰にあげてるんですかね?
星の数程ありそうな世界中のチョコレートの行方が気になる今日この頃です。

 

生きていく上でいかに平常を保てるかということがすべてにおいての完成度(仕事だけじゃなく生活などの)に関わってくるような気がして? いろいろな考え方を学んだり取り入れたり勉強したりしてきたここ数年ですが、途中経過としてわたしの思ういい感じの考え方というようなものが定まってくると割と安定するように。
よく言われていることですが、まずは限りがあるということを忘れないことでした。
限りなく限界まで極めても限界はある、ということです。わたしはきっと天才、非凡じゃないし、神様でも当然ない。
限界を突き詰める努力はしても、どこかに限界が存在する。
これを忘れると、ぼろきれみたいになります。本当に。睡眠時間も精神的にも酷使することは可能ですが、万能ではないので単純にやった分だけ完成度が上がるわけではありません。上手く、それらを保てるところを見極めて、その手前でやめなければいけないし、そうしないと下手すると余計に完成度が低くなるという変な状態になります。
でも妥協ではありません。できるのにやらないのとは違うので難しいです。

 

同じ状態で居続けることはできない。推移します。
どんなに努力しても、生まれた瞬間から死ぬ時まで同じで居続けることはありません。
その時でしかできないことがきっとあるし、いつまでもそれにすがりつくことはできない。時が来たら手に入れたり手放したり。
手放す時が来ても、それは悲しいことではないのだと思えないと辛いですね。同じ状態が続かないという事はそういうことだと思います。
能力は上がったら、いつかは衰えます。どうしようもないことだと思います。(衰えた自分を肯定したいとかじゃなくて。無論まだ私は人生の途中なので頑張らなければいけない)
そして、今はその上り坂にいるとしてもいつかは自分も絶対に下り坂を歩く日が来るということを頭のどこかに置いておくこと。その時が来たら素直にそれを認める心を作っておくこと。
すべてのことには終わりがあるのですね。これは最初の限りがあるってことと同じことなのですけれど。

 

ゴール(平均寿命で仮定して八十数年)に向けて一番したいことを考える。
三泊四日の旅に出るのだって、その中で一番見たいものを計画して出かけると思います。そんなイメージです。
たとえば、京都に行くなら清水寺には絶対に行こうと決める、みたいな感じで、この人生で絶対入れたいプランを決める。
あとは、よくも悪くも、八十数年長くても百数年経ったら、ゴールに行かざるを得ないのだということを忘れないこと。

 

終わりは絶対に来るのですね。
そう思うと、気楽になるし、別の意味ではこうしちゃいられないと気が引き締まります。
でも所詮その間の出来事なわけで、地球や人類の壮大な歴史のほんの一部に過ぎないということを思うと、自分の小さい悩みが本当に小さすぎてゴミみたいに思えます。(人それぞれそうじゃない悩みもあるのでこれも簡単には言えませんが)
保ち続けなければいけないものなんて本当はないんです。思っているほど。
限りがあるというその前提だけで、大分物事は軽くなりますね。

 

今の若い方に向けて。話を聞いていると真面目すぎて、ひいいって思うことがあります……。(お前が適当なだけだろとか思われてたりして。ひいいー)

 

あとは人は自分の鏡……とか因果応報とかいろいろありますけれど、その辺ももう面倒なので、とりあえず、相手にどうされても自分はやらなきゃいいやって。
嫌なことを。
自分がされたら嬉しいことを人にする、に限ります。
仕事もそうだし生活もそう。上手くばれないようにやってたってどうせ見える部分しか信じないだろうと思ってたって、そう甘くはないのですべて透けて滲んで見通されてしまいます。特に人生の先輩になんかは。(書いてるけど別にばれるからやらないってわけではありませんけれど。念のため)
ただね、嬉しいことをされたら嬉しいと思うんですよ。だからそれをすればいいんじゃないかなあって、それだけなんですよ。
それでありがとうって思われる自分がいいんだろ? 酔ってるんだろとかいう意見もありますけれどね、そういうパターンもあるかもしれないですけどね、それでもそれはそれでいいと私は思います。理由なんて人それぞれ。人を傷つけなきゃいいんです。
わたしは自分が褒められたような人間ではないと思っているので、そういうのはめちゃくちゃどうでもいいのですけれど……。まあいいや。どういう風に言ってもこの辺の微妙さは微妙ですね。言い訳すればするほど怪しくなる……。

 

特に、今させていただいているお仕事。
今週の新和座ブログにも似たような記事があったかと思いますが、こういうお仕事って、なくても生きていけると思うんです。
お芝居見たからってお腹が膨れるわけじゃないし。

 

それでも存在していて、楽しむために観に来てくださる方がいるって本当にありがたいことだと思うんです。
人生の中の貴重な時間を使って、お金も使っていただく、ということはある意味その方の命の一部をいただいているのだと私は考えているのです。
時間も、使うお金を稼ぐ時間も人生の中の一部ですから。
なので私も毎回、やらせていただいたお仕事は命をかけて臨んでいます。
だからと言って必ず伝わるわけじゃないし、だからと言って観てくださる方の望むクオリティや役に絶対になっているわけでもないと思います。
ここがなかなか難しいところなのですが、もちろんそんな神様みたいなことは不可能なのですが、今できる私の限界で、楽しんでいただけたらと思っております。そういう気持ちではいます。ということです。

 

なんかこういうことを書くとどうなんだろう? って凄く悩むんですけれど、たとえば……
凄く美味しいケーキ屋さんがあるとして、
食べただけでも、凄く美味しいなあって思っていたけれど、ある日そのケーキ屋さんが厨房の写真と、材料を公開したとします。
当然だけれど、食べ物を作るのに大前提として清潔な厨房、そして、技術以前に、こだわった材料。国産の○○というブランド粉を使用していたり、フランス産の○○バターを使用していたり、オーガニックの○○砂糖を使用していたり、というようなことを知ったら、より安心感があるというか、イメージが湧きやすいというか、ありがたく感じるというか、そんなイメージで考えていただけば。

 

もちろんわたしは、ただの一役者に過ぎないので、上記に当てはめるには大分無理がるというか厚かましいのですけれど、(そもそも食べてただけでもおいしいって思ってもらえてない可能性が……すみません)調理のためにいつでもキッチンは清潔に保っているし、今できる最大限の技術を使ってわたしがいいと思う材料で作っております(芝居ですが)ということをたまにはお話させていただいてもよいのかな? と。いくら技術があっても大前提がなってなきゃだめだ! と言う感じ? 大前提だけはなんとかなっております。
私は上記のような記載があったりすると、ありがたかったりするので。でも、なかなか役者に当てはめると……うーんという感じはありますが。

 

なかなか公開の範囲が広まる程、なるべく多くの方に理解いただけるように、と考えると話もテーマも絞られてしまうのですが、限りがある、限界があるということを考えて、たまにはこういうことを書かせていただいたりしております。
わたしが読んだらめんどいなあんた! って文を書く……。よく友達にも指摘されますが、まあこの辺は万能じゃないので仕方ないです。
パクチーを愛するように楽しんでいただけたらと思います。好きな人は好きですけど嫌いな人はめちゃ嫌いですよねパクチー。

 

そんな私は近々では噂のデスマーチに出演させていただいております。
声のみなので探していただけたら! 沢山の方に楽しんでいただけますように心を込めて命を懸けて演じました。
よろしくお願いします。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。