ぼくらの源泉

先生と呼ばれて

ぼくがはじめて専門学校の講師の仕事をした時に『先生』と呼ばれることに違和感を覚えた。何故ならぼくのようなとんでもない人間が”先生”なぞできないと思っていたからだ。しかし、専門学校の門を叩いた生徒からすれば、目の前にいるおっさんは紛れもなく『先生』なわけだ。
ぼくは自分がとんでもない人間ではあるけれども、礼節は学んでもらいたいと思い、『先生』と呼ばれることに慣れた。しかし、心の奥底では『先生』とは程遠い人種だ、と常に思っていた。

この春に新和座に入団したいとうは演出部に入ってもらった。俳優としても活動しているが、前回”玩具騎士団”の演出をしてもらったし、彼女はそもそも、本も書くし演出もする。そんないとうがつぶやいた。

 

 

満足させらなかったらそれっきり。失望されたらおしまい。

大きく言えば、いとうもつぶやいている通り、ぼくらのこの仕事、「演劇」や「お芝居」、「芸術」の類は、お客様に満足してもらえるから、お金を得る事ができる。翻って、ぼくらも観客として足を運ぶ場合、満足できなければ、次は観に行かなくなってしまう。
だからこそ、命がけだし、生き残れるかどうかの闘いでもあるわけだ。ステージに美しかったり、すごいモノを見たとしても、板の上に立つ以上、常にギリギリの境界線、地上50mに張られたロープの上を歩いているようなもんだ。安定なんて程遠い。
恐ろしい世界だ。

 

ぼくらの源泉

いとうのつぶやきには続きがある。

そうなのだ・・・たとえ99%のお客様に不評だったとしても、1%のお客様に『良いね』と言ってもらえたらそれが自分には力がある、と思えることなのだ。ロープから落ちそうでも、なんとかしがみついて、向こう側に渡れたのだ。無傷ではないけれども。
総てのお客様に対して、100%完全な満足というのは…夢のまた夢だろうし、ぼくには到達できないと思う。しかし、いとうも呟いているとおり、誰かが『良いね』と言ってくれた事が力になる。その力こそがぼくらの源泉なんだ、と思う。

だからといって、1%のお客様の為だけに、ということではけしてない。はじめは1%かもしれないが、2%、10%、50%、80%・・・ぼくらはその源泉をどんどん広げ、深くしていかなくてはならない。何故なら安定を求めたら・・・地上50mのロープが地上1cmくらいに張られたロープでいとも簡単に渡れてしまうだろうから。そうなっては…その最初に支持してくれた人にもそっぽを向かれてしまうかもしれない。

できることとできないことを認める。誰でも完璧ではない。だからこそ、できることとできないことをきちんと見つめて、出来ることを更に深くし、できないことも突き詰めていけば、そこから新しい何かが生まれてくるかもしれない。