おわり

「花が半分くらい枯れたら切っちゃって」
鉢のひまわりを買う時に言われました。
どうやら切ると、次の花が咲くらしい。

 

確かに、すでに咲いている花の下にはもう蕾がありました。
ふーん、そっか。
その場ではそのくらいに思って、帰りました。
最近のちょっとした野菜作りなんかでも、切らないと栄養が回らないとか、そんな当たり前のことをようやく学んだばかりだったので、花も同じなのかな、と思う。

 

ところが。
そうだ。わたしはちょっとした野菜作りで学んでいたんじゃないか。と後々思い出す。

 

切るのがかわいそうになってしまうんだった。

 

半分って。
まだ半分咲けるじゃん。
栄養回すために必要だと頭では理解できても、半分で切り落とす、という行為はとても残酷に思えた。
存分に人間的な感情が入りすぎてはいるのですけれど。

 

全うさせてあげたいとか余計なお世話なのか。花の気持ちなどわかるわけもなく。
でも、最後にどうしようもなく枯れ果てて、もうどうしようもない、という終わりの姿を見るとそうしてようやく納得できるようなところがあった。
結局は花が半分枯れたくらいに、下の蕾の花が咲き始めてしまったので仕方なく切り落としたのですが。
でも、その花が咲き始めなければ切り落とせていたかは不明。あまりにも下の花が窮屈そうだったから、切り落としたけれど、やっぱりなんかいい気分じゃないというか。
覚悟がいるし、心も痛みました。
生き物とのお別れは数々経験してきたけれど、歳を重ねるにつれてますます耐えられなくなり。
だから、植物まで辿り着いたのに、結局わたしは植物もだめでした。

 

切り落とした半分枯れたひまわりを見てしょんぼりした気持ちになる。
生きているものだし永遠はないとわかっているけれど。
理不尽だとかそういうことでもないし、大抵は望むような終わり方も選べないとわかっているけれど。それにきっとどんなふうに終わっても悲しいのだけれど。
やっぱり向いていないな、と思いました。

 

物を壊したり無くしたりする終わり方も、なかなか受け入れがたくで自分の執着心に落ち込んだり振り回されたりしてそれも嫌ですが。
生きているものの終わり方はまた別の、全く別の、慣れることのできない悲しみがあって、それでもそういういつか終わりを迎えるものをひとつずつ手にしていくというにはもう少し強さが必要なのだと思いました。
そういうものは年齢に比例して手放してばかりですが。

 

永遠に咲いている花が欲しいわけではないし、有限の美があるのだともわかりますが、慣れないなあ。
花が自分で落ちるまでではなく、こちらが「終わらせる」瞬間を勝手に決めるなんて、なんだかなあ。
夏の終わり。また答えの出せない問題を考え初め沼にはまる。

夏休みの宿題はないけれど、生きる間の宿題は沢山ありますね。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


答えを探し求めるしかない……

お盆も過ぎましたがまだまだ暑い日が続いております。
福島から戻ってきてやっぱりこっちの毎日はじめじめしていて暑苦しいし、エアコンはつけっぱなしだし、夜空に星は辛うじてしか見えないし。
という私は福島出身というわけではないのですけれど。

 

遠くに行く、ということがわたしは基本的にはあまり得意ではないのですが、それでも遠くに行ったり旅に行くと必ず何かしらの「気づき」があるので、そういうことが遠くに行くことの魅力のひとつだと思います。
今回もいくつか考えさせられることがあったのですが、その中のひとつを。

 

 

それをするにはふさわしい時期が存在する

 

 

今からでも遅くない。やろうと思った時からいつでも取り戻せる。という考え方も基本的には持っているというか、わたしはどちらかと言えばそういう考えかたの方が強く持っているのですが、どうしてもそうはいかない部分があるのもまた事実だと思います。
ままごとや砂場遊びをするのにふさわしい時期(楽しいと感じる年齢)、ランドセルを背負って学校に行くこと、中学生、高校生、それぞれにその時だから行って楽しい場所ややって楽しいことがあり、また大学生くらいだから楽しいこともあってその時々変化していきます。そういったようなことです。
子供向けの遊具で大人が遊ぶわけにはいきません。大抵はそもそも思わないと思うのですが、子供のある一定の年齢の頃に遊ぶからそれがとても魅力的で楽しいことになるわけで、それはずっと続くわけではなく、ある一時与えられた限定的な、でもその瞬間には絶対的に近い価値があるわけです。
そしてそれは当たり前ですが過ぎてしまったら取り戻すことはできません。ある種の価値があったというような記憶だけ残して、今は無価値なものだったり、それ以外の何かに変わってしまったりする。
そういうことを生きている間にきっと繰り返していくのだと思います。
「子供の頃にもっと勉強しておけばよかったな」という言葉を聞かない人はいないと思いますが、あれもそういうことなのでしょう。
子供の頃は全くぴんとこなかったのですが、大人になったら大勢の大人が思うようにまたわたしもそう思いました。やっとああこういうことだったのかと思いましたが。

 

ですが今回の話はそういうことで終わるわけではないのです。
その時に「やりたい」と思っていたこと、その時だけの価値のあることをどういうふうにやらなかったか、もしくはあきらめたか、ということによってその後の後悔の種類が変わってくるということです。
他人から見ればくだらないことかもしれませんが、そのくだらなかったり、普遍的でどこにでも転がっていそうなことに囚われてしまうというのはおかしいことでも珍しいことでもないような気がしました。そういう一見普通のようなことが幸せの根底にはどうしても含まれると思うからです。
その人にとってそれがある種の価値であれば、それはどんなにくだらなく見えても必要なことなのだと思います。
必要だと自分で判断し、それによって失敗したりすることもあるかもしれません。その時は落ち込んだり悲しんだり傷つくこともあるかもしれませんが、それは永遠ではないと思います。自分で選択することの良さはそういう部分だと思います。その時にはそれが必要だと思ったのですから。
ですが、それを必要とする本人が干渉できない部分で奪うということは、どこまで続くかわからない後悔を抱えることになるのではないかと最近考えるようになりました。
ここのところが本当に難しい部分だと思います。

 

できなかったことを誰かのせいにして言い訳することはしてはいけないことだと思うし筋違いです。
もしかしたらできないようにと止めた相手も、本当にそれはよくないと思ってそうしただけかもしれません。心の底からそう思ってそうしたのなら必ずしも責められることでもない気もします。
もちろん絶対的にやってはいけないことも存在します。人を傷つけたり迷惑をかけるようなことです。
ですがそれ以外のことで、個人の考え方による価値や裁量が入ってしまった場合です。
それを考えた本人がフラットに考えられているかは本人にも他者からも判断しにくい。だけどそれをたとえば絶対的な関係性で行使された場合。たとえば小さな子供と親のような。

 

可能性を断ち切ってしまうことの恐ろしさというのを考えずにはいられませんでした。
それをやるべきふさわしい時期が存在するのに、それをその時に自分では干渉できない部分で奪われてしまったら?
それはもうずっと後悔を抱えていくしかないのではないか?
取り戻すために同じことを今からすればいい。という意見ももちろんあります。ですが果たして最適だと思った時期からずれて価値や考え方が変化した現在同じことをしたとして同じ結果が得られるかという疑問があります。
だから可能性はゼロにしてはいけないのだと思いました。人の心は可視化できないのだし、難しいのだと思いますが。
単に奪われたとか、恨むとかそういうことではなく、取り戻せなくなった根底にあるべき何かの空洞をどうするべきか、それとどう向き合っていくべきなのか、ということに結局は行きつくのかもしれない……。という。
終わってしまったように見えることでもそれにさえ更なる答えを求めていかなければならないというのが生きていくうちは。

 

可能性をゼロにしてしまうことの恐ろしさ。
自分にとって大切ではないこと(不要にさえ思えること)であったとしてもそれは誰かの価値かもしれない。
だからその可能性を奪える立場にあったとしても、それを奪ってはいけないのだということですね。それを得るにふさわしい時期は存在し、その後悔を抱え続け、答えを探し求めるということになることもある。それはそれで新たな気づきなのかもしれませんが、幸福の根底が欠けてもいいと思える人なんていないんだから、それをすべて奪うようなことはよくないのではないかと思いました。
絶対的にいけないことではない限り、どんな結果になろうとその価値に触れるチャンスはあった方がいいのではないでしょうか。
何も物理的、金銭的という単純なことだけではなく、思考や発言や、そういうことです。
それだけのことが、それだけのことでは済まされなくなる恐ろしさが存在するような気がしました。
小さなことかもしれません。でも小さなことかもしれないから怖くなります。そういうことが転がっていて、何か小さなきっかけで、長い年月をかけて大きな何かに変わってしまっていたりする。

 

……というようなことを永遠と考え、他にもいくつか。
やっぱり普段見ない景色の場所で普段しないことをするといろいろと気付かされ考えさせられます。
よくも悪くも。ですが、わたしはそう悪くもないと思います。
腰は重いけれど、こういうことをひとつひとつ考えていくのも生きていくことの楽しさですね。きっと。
よい面だけでも悪い面だけでもきっとよくない。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


夏休み

夏休みを満喫してきました。
夏の空、夏の風、湖、花火、星空、手作りのスイカ……。
久しぶりに夏の福島へ。

 

兎に角目に優しい緑と空の青ばかり眺めていた数日間。
普段はエアコンをつけっぱなしにしないといけないくらい暑いのに、福島は夜は涼しいを通り越して寒いくらいで、過ごしやすかったです。
帰ってきたらまたエアコンの日々に逆戻りですが……。

 

湿度が低い夏のからっとした風はいいものでした。
あれくらいなら夏もいいものですが、こっちはどうしてこんなに湿度が高いんだろう。
夏を楽しむというよりいかに耐えるかという。
子供の頃のように蝉取りやクワガタ、カブトムシ探しはできなくなりましたが、大人になっても自然たっぷりの涼しいところはいいものです。
目にも優しく蓄積された眼精疲労も和らいだようです。
夜は星を見に行き……。
街灯のない闇の中ではそれはそれは星が綺麗に見え、流星群を見に行ったらいくつか見ることができました。
大人になってからの方が星は楽しめました。どこへ行っても夜でも明るい場所に住んでいると、闇が貴重で、降るような星には感動します。
祖母手作りのスイカも甘くておいしく。
こっちではどこでやったらいいかわからずできない花火もできてこれぞ夏休みという感じの夏休みを過ごしました。
線香花火がぽたっと落ちるのを見ると夏の終わりを感じます。
儚く寂しい。昔から線香花火が一番好きな花火です。
子供の頃とは楽しみ方が変わってしまいましたが、大人になってもいろいろな楽しみ方があるものですね。
感じることが変わって、きっとこれからも変わっていくのだと思いますが、その時々での考えと過去を振り返って懐かしんでみると、それもまた楽しい。
目に映るものも感じ方も、その時々を忘れないようにしていきたいと思いました。

 

夏は精彩だけれどその分儚さも感じやすい気がします。
だからこそ印象深くもあって、他の季節の出来事より鮮明に記憶に残っていて、今回も懐古しつつ、そういう時間に幸せを感じながらまた未来を考えたりもしました。
移ろわないものはないとわかっていてもその変化がどういうものかということはなかなか想像できなかったり想像通りにいかなかったりするので、兎に角今を大切に生きていく、ということを意識するようになりました。今の積み重ねが明日、それ以降でしかないことしか確かではないですが、日々繰り返されるからこそ気付けば蔑ろにしてしまう恐ろしさがあります。有限でしかない大切さを夏の夜空を見ながら考えられたいい時間でした。
大人の夏休みもいいものです。
暑さだけはまだまだ続きそうですが、 夏も残り少なくなってきました。わたしは後はかき氷くらい食べれたらいいな……と思いつつ。

 

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


みたされていてはいけない

よかれと思ったことが……ということはよくあることです。

 

トマトの状態がどうやら栄養過多じゃないだろうかと判明した今週。
小さいポットからすぐに大きな鉢に移したことがよくなかったらしいです。栄養を一気に吸収できて蔓(枝?)ばかり伸びてしまうらしい。
なるほど。確かに最初ぐんぐん伸びたわりにそれ以降はという印象だった。

 

水をあげすぎてはいけないという部分もそうですが、足りない、くらいで止めないといけないとはなんだか耳が痛い話です。
「充たされてはいけない気がする」とは常々思っていて枯渇しているくらいがいいとは思いますが、植物も同じかと思うとリアルなものです。
足りなくなることからのあがきに本気が出ると言いますが、結局追い詰められないと発揮できないと思うと人間的には情けないような。
火事場の馬鹿力的なことですね。
では具体的に言う枯渇とは……ということに関しても、基準が難しいと思います。
あくまでぎりぎりの位置というのがきっとポイントであって、一歩間違えれば本当に枯れてしまう状態だと思うのです。
そんなに都合よくはいきませんね。当たり前ですが。

 

ただ気軽にトマト代節約と言って始めたトマト栽培が思わぬ学びと新たな思考の泥沼化を連れてくる。
途中トマトに優しい言葉をかけてあげたら? とかいうアドバイスももらったけれど、それってつまり、応援してるからテスト頑張って! 的なことですよね?
応援だけでそう簡単にいくかってことです。根性論は自分に対してしか発揮できません。トマトはあくまで他者。
この一年近く、すっかり植物とお友達になりました。メンバーも増えました。
園芸店に通い、せっせと土や肥料や鉢を買ってきて、成長したのを見てはにまにましてひとまわり大きな鉢に植え替え、甲斐甲斐しく世話をし、無言の会話をし……。
会話はもちろんできないのですが、結構植物たちが教えてくれることも多いわけで、気付きもあるわけで、本当に何もないことなんてないんだなあと感じました。
心の声に耳を澄ませなければいけないものが好きなのでしょうね。
枯れかけても一生懸命蔓を伸ばし、芽を出そうとする姿もいいです。植物や動物を見ていて一番感動する部分というか、学ぶべきは、挫けることのなさと、最後まで生を全うしようとする、生に対するひたむきさなのかもしれません。
生き物なら本来あるべき姿なのかもしれませんが、そういう生きる姿勢というのは客観的に見せられて、一切余分な感情がない本物というものを知る。
諦める、ということがない部分は見習わなければいけないとひしひしと感じます。

 

人間だから弱気にもなるし逃げたくもなるし諦めたくもなるけれど、疑いなんて僅かもなくあまりに透明にただ前だけを見つめる姿というのは生きていることの美しさのひとつだと思います。そしてそういう美しさに心が震える。
花なんて咲こうが咲くまいが、関係ないのです。本当は。

 

というわけで今週もトマトを見守ることにします。
育てたい花をお店に行くたびに指をくわえて見ていますが、もう育てるスペースがなくなってきたのが最近の悩みです。
花はいい。こんなに花に癒される日が来るなんて思わなかったなぁ……。

 

皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


柔軟な発想

最近、また柔軟な発想についてまた考えさせられる出来事がちらほら起こり。
そういえば今となっては有名になったあれやこれなんかも元は失敗からできているものも多かったり。

つまりいかに物事を決めつけて判断しているかということ。

ですが柔軟な発想は「柔軟な発想をしよう」と思ったからと言って簡単にできるものでもないのが問題なところ。
こればかりはもう頭の構造なのか……と自分がそういう壁にぶち当たるたびに思います。 続きを読む “柔軟な発想”


興味と転機

人間の本質はなかなか変えられないものです。と常々思っていますが。
特にわたしはとても偏っていると自覚していて、自分が気になることには猪突猛進、興味のないことには目も向けないという性質が子供の頃から直せず、たまに「えっ? そんなことも知らないの?」って言われちゃうようなことにぶつかるたびにいけないいけないと反省するのですが、やはりすべてのことに気がまわるわけではなく。

 

今週の座ブログでも書かれていましたが、自分の好きなことや興味のあることだけをやったり見たり読んだり経験していては偏ってしまうと。
そうだよなあそれじゃあいけない、と思ってからはなるべく自分の興味のない分野でも一度は経験してみることにしております。いつか芝居に使えるかもしれないし、という理由ももちろんあります。それ以外もありますが。
そうやって意識してきたつもりでも、抜けや例外もあります。
たとえば機械です。 続きを読む “興味と転機”


過剰でなくてもいい

毎日蒸しております。
気分は落ちていく一方です。わたしは暑いのがとてもとても苦手です。

 

そういうと、あれ、寒いのが苦手じゃなかったっけ? って聞かれますが、寒いのも苦手です。
寒いのが苦手なのに暑いのも苦手なのです。
わがまま!

 

一週間をかけて気力が右肩下がりになるのと平行するように、なぜか(きっと好きだから)ショートケーキを食べたい気分が右肩上がりに盛り上がる。
この時季クリームが溶けるからあまりケーキを持ち歩くのには向いていないよなあとどこか自分を宥めながら、その気持ちが膨らんでいくのは止められず。
思い始めて数日後、久しぶりにお気に入りのショートケーキを求めて旅立つ。大袈裟。

 

汗だくになりながらショートケーキのために足を運ぶってどんだけショートケーキ食べたい人なんだろうという自分突っ込み。
今ならもうかき氷なんじゃないだろうか。
渋りまくっていたから結局閉店時刻ぎりぎりになっての到着予定だし、そもそもケーキが売り切れていないという確証もない。
なにやってるんだろう。というまた自分突っ込み。

 

でも運よくお店にお目当てのケーキは残っていて、更に更にサマータイムのおかげ? か営業時間も延長。
閉店時刻ぎりぎりだから速攻買って退散のはずが思わぬ猶予ができたためイートインに変更。
そいや最近暑すぎてコーヒー豆を買いに行くことも億劫になり、コーヒー豆が切れてからコーヒーも飲んでいない。
ということでついでにコーヒーも飲んでいくことにしました。

 

本当はいちごのショートケーキが好きですが、季節のフルーツを使うケーキ屋さんは大抵この時季はいちごではなくメロンになっている。
ということでメロンのショートケーキを食べましたが、凄く凄くおいしかった。
一週間求めたショートケーキは身体に染みました。
わたしには珍しく最近甘いものを控えていたせいか余計にそう感じたのかもしれません。

 

それにしてもショートケーキはシンプルだからこそ素材の味がよく出てしまうお菓子だと思っていて(素人だからよくわからないですが)
フルーツも、生クリームや、粉やバターなどもすべてがいい材料なのだろうなというお菓子は本当に隅々までおいしい。
一口目から丁寧で消えるまで穏やかで緩やかでいてインパクトがある。
身体が喜ぶ味がします。

 

甘さが極力抑えられているのであろうと思えるお菓子は、単純な甘さでは言い表せないそれでも甘いお菓子を決定的な甘味以外で立体的にしようとしているような感じが優しい。
と思うのはわたしが素人だからでしょうか。
甘いものを食べたいから甘くて当たり前なのですが、砂糖で甘いのとその他の食材の風味なんかで絶妙に甘さを感じるのとは全然違うような気がするのです。
ひとくちメロンを食べた瞬間にじゅわっと広がる果汁の柔らかな甘みはやっぱり砂糖のそれとは違うと思うし。
想像しかできないですが、優しいお菓子だなあと思いました。

 

ひとつのものを形成するのにはいくつもの要素が組み合わせられていて、単純ではなく複雑だし目で見てわかりやすいものではないのかもしれませんが、伝わる時もちゃんとあるのだと思います。
伝わらないことももちろん多々あるのかもしれませんが、そこに答えが出来上がっているのだから、やはりそれが答えなのではないかと思ったりするのでした。

 

真摯でなければいけない。
丁寧な仕事に出会うたび、それがどんな形のものであれやはりそう思います。
すべての人に完全に完璧に伝わる形ではなかったとしても、伝わることもあると思うし、伝えられなくても伝えようとすれば真摯な姿勢は崩せないのだと思います。

 

気付けば七夕も過ぎていました。
お願いごとはもうすっかりしなくなってしまったので、自分で努力して叶えたいと思います。
自信過剰なわけでは決してないのですが、どちらかと言えば冷めてるんだろうと言われれば全く否定しませんが、星だけは見たいなとふと思いました。
何年も前の夏に裏磐梯で見た星空とからっとした空気は今でも恋しいです。

 

何年たっても色褪せないものは下手にこねくりまわしたものよりよっぽどシンプルだったりします。
そういうのが少し切ないですが……。
普通に夏を乗り切る方法を考えているうちに終わるのが夏なのですよね。ああ切ない。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。