柔軟な発想

最近、また柔軟な発想についてまた考えさせられる出来事がちらほら起こり。
そういえば今となっては有名になったあれやこれなんかも元は失敗からできているものも多かったり。

つまりいかに物事を決めつけて判断しているかということ。

ですが柔軟な発想は「柔軟な発想をしよう」と思ったからと言って簡単にできるものでもないのが問題なところ。
こればかりはもう頭の構造なのか……と自分がそういう壁にぶち当たるたびに思います。

 

柔軟な発想ができないので、せめて「もし自分がこれをこういうものだと思っていなかったらどう思うだろうか?」という想像はするようにしています。
所詮気休めですけれど……。
「もし」というのがこれはなかなか考え始めてみるとこれまで知っていたものが新鮮に思えなくもなく楽しくもなり不思議にも思います。
むしろ自分はどうしてこれをこういうものだと全く疑いもせずに信じ切っていたのだろうかと。

 

最近では「トマトの実がならない問題」がそうでした。
以前のブログでトマトを育て始めたとちらっと書いたことがありました。そう確かもう一か月くらい前でしょうか。
家庭菜園の中ではよく見かけるし、一度育てた方の感想も「実がなりすぎて食べきれない」というものまであるくらいだから難易度もそこまでてはない、はず?

 

とりあえず土に植えて肥料をあげて、水をあげておけばそのうち実はなるだろう。と自分でも意識していないところで疑いもせずに思っていたのかもしれません。
ですが、そう。
トマトの実がならなかったのです。いや、これからなるのかもわかりませんが、あまりにも遅い。これは様子がおかしい。という状況であります。
トマトを育てたけど上手くいかなかったよー、なんて話未だかつて聞いたことがないのですが、私はこの状況になって初めて「苗を植えたからと言って実が自然になってくれるものではない」という事実に気付かされることになりました。

 

その事実を突きつけられた衝撃。
何よりそれを疑いもせず当たり前だと思っていた自分の愚かさ。
はい、植えましたー。あとは勝手に実をつけてねってそりゃ傲慢な考え方でした。すみません。

 

ですがなんと言いますか、こんな感じで無意識に当たり前だと思っていることは日常に溢れているんだろうなぁと思うとまた凝り固まった自分の思考にがっかりし、傲慢な考え方に凹み……。

 

そしてそんな自分の浅はかさを見せつけられるように、そんなふうに考えさせられる出来事が立て続けに起こるという今週でした。
とりあえずわかったことは自分がものすごく決めつけられた枠の中にいた、ということです。

 

種をまいても芽を出すことも成長することも花を咲かせることも当たり前ではないのですね。
栄養をあげても芽すらでないこともあるのかもしれません。
そしてそれは、そもそも芽を出すものではないということさえ想像する必要があることなのかもしれません。
種だと思っていたものが種に擬態した種じゃない何かだったり、その種だけなんらかの原因で……いや、そもそも……

 

きりがないので一端頭を冷静にしたいと思います。
ひとつのことに囚われると抜け出せないたちなのに年がら年中囚われているのが私です。

 

柔軟な発想ができる方の思考とか脳の仕組みが気になって仕方ありません。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


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