学べること。

先週のブログを読むと、さて、こんなつもりじゃなかったのにな……ってことが書かれていたりしてびっくりします。
客観的に見るにはある程度の距離感が必要なようです(一週間くらい?)
小学生の頃作文が苦手すぎたのですが、ブログなんかも、ただあったことを連ねていくとただの絵日記の絵のないバージョン。あ、それ日記ですか。
話はやっぱり頭の中でおちまで考えてから書く必要があるのでしょうね。目的地に到達しないどころかそもそもこれはどこへ向かっているのかという疑問が湧いてくる。
おちどころがない時の困りよう。

 

涼しくなったおかげか、今週は穏やかな週でした。
わたしは強弱が激しいので、穏やかか荒れ荒れかはっきりしている。

 

いつものお店にコーヒーを買いに行くと、常連様らしいお客様に声をかけられました。
老舗の飲食店のおかみさんらしい。
流石接客業のプロフェッショナルという感じで、話がきびきび。
明瞭、快活。力強い視線と姿勢で数分間話を聞いていただけで、ああ今度お店に行ってみようと思わせるしゃべり凄いな! と。
流石人生の大先輩。違います。

 

自分の価値観や考え方を伝えるというのは、 続きを読む “学べること。”


だけど、覚えられたらきっといい

クリスマスケーキの予約をしてきました。
予約開始日に。←
気合入ってるでしょ。
どれだけクリスマス好きなんだよ。好きです。クリスマス。一年で一番好きなイベントかもしれません。

 

まあ、なんとなく初日に行ってしまうのです。
ケーキによっては予約開始日に売り切れてしまうのですが、わたしの選ぶケーキは予約開始日に売り切れたことはありません。
それなのに、予約開始日。
もう何年も続けていると、これも習慣みたいなものですね。
毎年同じもの。と、今年は行ってみてケーキがおいしかった老舗ホテルのものを。
クリスマスケーキを食べるのは初めてなので楽しみです。
あと、もう一台くらいいけるかな……?←(三台目) 続きを読む “だけど、覚えられたらきっといい”


幸せのはなし。

今日から十月ですね。
九月の間にクリスマスケーキのカタログが届いて、いよいよ年末が迫ってきたなぁと。
夏が終わると年末までは速いですね。
先週は夏のような蒸し暑さが戻ったりもしましたが、昨日は突然涼しくて長袖を出しました。
長袖を着られるとほっとします。
大好きな銀杏ももうすぐ黄色くなりますね。

 

秋は秋の楽しみがいっぱいです。 続きを読む “幸せのはなし。”


個性はなんですか?

一週間が経ちました。土曜日です。
朝から胃がきりきり痛んでおりました。
今日はブログ担当の日であります。一週間たっぷり時間があったのにわたしの頭の中は空っぽでした。
今週は一週間、すっかり別のことに頭を使ってしまいまして、不器用なわたしは一週間ほとんどをそのことだけを考えて過ごしてしまいました。
ブログのお話のためにとどめておけるようなことはすべてそちらへ回され、不甲斐なさに情けなくなり食事も喉を通らず……というのは多分別の理由で、生きるために用意した軽めの食事を飲み物で流し込んでいざパソコンの前へ。

 

まずは今週は何があったのかと新和座メンバーの一週間を振り返り……。
オタクとか変態とかメルヘンとか……って自由だな!
いつものことですが。
座長も年々キャラの濃さが増してきたと言っていたけれど、人間歳を重ねていくとありのままの自分を受け入れていけるようになるのではと最近は思っています。
ありのままになっていった結果、性質とか好きな部分が強く出る→濃くなる。みたいな?
まあ人間くさくて好きです。

 

なんだかおもしろいメンバーが並ぶ中、ここにきてカテゴリのない無個性。(だったらいいけどもっとつまらないカテゴリだったら反省しないとなー)
ここはいちごチャージくらいのインパクトがほしいところですが、わたしじゃ作り切れないから無理でしょう。
作るというと語弊がありますが、松井ちゃんの凄いところはいちごチャージが素であるところなのです。
以前わたしは「天然」に憧れたことがありますが、憧れている時点で「天然」を演じなくてはいけないので諦めました。
演じるのは役のみです。

 

そんなインパクトを与えてくる松井ちゃんがまた事件を起こしたのでした。
休憩時間に開いたツイッターを見ると飛び込んできた松井ちゃんの衝撃ツイート。

 

お稽古にはすっごく行きたかったんだけど……略 パーティーへ行ってきた……? だとっ!

 

わたしの目が黒いうちにサボろうとはいい度胸じゃないか!
いちごチャージしたって見過ごすわけにはいかないぜ!
行きたかったとか言ってサボってんじゃねぇ! 稽古は這ってでも行くんだよ! 仕事だろうがっ!
(というと怖ーいって思ってしまわれる方がいるかもしれませんが、声優とか役者って目指し始める段階で、最初にずばっと「親の死に目には会えない仕事です」とか「病気とかなんかの事情でできないと思ってもとりあえず現場には行きなさい」とかそういう覚悟を持ってというようなことを言われます。今はどうかわかりませんが、わたしが目指し始めた約十数年前はそうでした)

 

と怒ったわたしが誤解していたと気付いたのはそれから数分後でした。
直前にね、決まってね、来られる人だけだったんだって。

 

言葉って難しいなと思いましたよ。
伝え方と、受け取り方と。
そして座長の迅速な対応力。
華麗な連携プレー。

 

部が違うので舞台班とはなかなか会う機会もないのですが、なかなかね、あーおもしろいなと思いました。
補足しますと、松井ちゃんはメルヘン天然ですが普段からとても真面目に取り組んでいます。
これからもきっとおもしろいネタを提供してくれるでしょう。

 

ということで、何も考えられなかったブログの一ページは救われました。
ありがとうメルヘン松井ちゃん、ありがとう変態(?)座長。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


オチのないはなし

何気なくニュースを見ていると、もうクリスマスケーキ商戦の話題が。
確かに、十月から予約が開始されるということはもうクリスマスケーキがどんなものかはとっくに決まっているわけで。
はああ。まだ暑いのにね。
最近は、クリスマスがやたらと多くないですか? とか、そんなことばかり話し合っています。
月一もクリスマスいらないよ! と。月一もないけれど、本当にそんな感じにクリスマスが巡ってくる。一年の流れがはやいです。

 

気付けば夜の散歩でも聞こえてくるのは虫の声。すっかり秋。
道端に生えてるススキ。去年駅前の花屋で一本八百円で売られていてぎょっとしたっけ。と、くだらないことを思い出してしまいました。
道端で見かけるだけで我慢してます。外の風に吹かれてさらさらしている様が好きです。
家に飾ってあってもいいのですけれどね。
仙石原で見たススキはそれはそれは美しかったです。夕日で黄金色に輝く一面のススキ。
こういうものはやはり実際にその場にいかないのだめですね。言葉で言えば月並みな感想しか出てこなくてとても残念です。
車で行くとそう遠くもないので、たまに行きますがいつまでも忘れられない景色のひとつには違いないです。

 

九月になっていたけれど、ようやく金魚を見に行ったりもしました。
涼やか。
福島で偶然見ていたけれど、改めて。沢山の種類がいますね。優美だった……。金魚ファンがいるのもわかります。
ただ金魚を見るだけじゃなく、音と光で見せているのが印象的。
金魚はただ金魚を見ているだけで美しいのに。
ただ途中から金魚を見てるのか人を見ているのかわからなくなって、半分くらい意識が遠くへ。
わたしはこういう集中力がないようで。
人にぶつからないようにとか、足を踏まないようにとか考えているうちに何を見ているのかわからなくなる。
それにしても器用な人が多く、上手く空気を読みながら交代に絶妙なタイミングで写真のシャッターを切っている人を見ていると自分がとても不器用な人間だと教えられている気がしてしまいます。
阿吽の呼吸並です。それにしても、こう同じ場所にどれだけの人が集まっているのかわかりませんが、同じものを全く知らない人が写真に写しているのだと思うと不思議な気持ちになります。スマホにカメラもついていて、常に誰でもカメラを持ち歩いているような状況。
特に何も考えず、なんとなく写真も撮ってみるけれど、その後その写真をどうするかは、たまに持て余してしまいます。
大きな渦に自分でもわからないうちに巻き込まれて飲み込まれているような、そんな感じがしなくなくもなく。
とても不器用なのに、同じようなことをしているとできていないのに無理して頑張っているような痛々しさを感じ、誰にというわけでもなく謝りたくなり……。

 

金魚を見ていたはずが謎の心理状況。いけない、人に揉まれすぎた。冷静になろう。と、思い直し。

 

外へ出たらすっかりランチも終わっていたので、デパートの人がまばらなレストランフロアをうろうろして空いているお店で洋食を食べて帰りました。
普段は外を歩いているから、大分上から同じ場所に留まって外を眺めているとどこか違う世界に来た気がしてしまいます。
高速道路を見ているのは結構好きです。遠くから来た車がどこへ行くのか想像する。あてのない感じがいいのです。
昼でも夜でもない中途半端な時間にそんな風景を見るのは久しぶりで、気が抜けました。

 

変なお休みだったなあ……。

 

散歩をサボらないためにたまにあえて図書館で借りる本、を返しに行ったある日の夜。
何度行っても閉館時間が覚えられなくて、結局いつも行く前にホームページを確認してしまう。
その日も調べて行ったのに、図書館は真っ暗で。
ちゃんと見たのに、そもそも見間違えていたことに気付いてひとりで恥ずかしくなりました。
見ていたくせに見間違えるとか……。だめすぎる。
ひとりでもくもくと歩いていたら帰ってきた時には汗だくでした。
微妙な恥ずかしさを速度で誤魔化す。

 

次の本が借りられなかったな……。
部屋の中にはまだまだ読んでいない本が山のように積み重なっているのに。

 

そんな締まりのない週だったので、話にまとまりがありません。
おちのある話を心がけていますが、普通に過ごしていると普通に落ちのないのが実は普通だと気付く普通の生き方でした。
芝居で必要な日が来るかもしれない……というのが癖ですが、気を緩めればさらさらとしていて何も残らないものですね。
来週はまた、拾える日々に戻らなければと気持ちを切り替えて。

 

でもたまには頭を空っぽにするのも悪くないものです。
では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


夏が終わる

わたしの中では夏は八月までと決まっています。
もちろん八月が終わった途端にスイッチを押したように秋が訪れるわけではないのですが、気持ち的な問題です。
主に影響があることと言えば服装くらいですが、あまりにも真夏っぽい格好はしないようになり、秋へシフト。

 

夏の間、わたしは散歩を日が沈んでから(大抵は夜に)しているのですが、ここ数日徐々に日が沈んでからの空気に秋の気配が含まれているのを感じていました。
昼間はまだまだ結構暑かったりするのですが、日が沈むとそこには確かに季節の移ろいが。
ああ地球ってちゃんとまわってるんだな、と当たり前のことを思いながら歩く道の脇にはススキがゆらゆら揺れていて、こんなところもああ秋だなと。

 

子供の頃、夏休みというのは一番長くて特別なお休みだったはずなのに、そういえば夏休みの宿題とかどんなだったけかなと記憶をさかのぼってみても何も浮かんでこないことに気付きました。さっさと終わらせる派とぎりぎり派の論争?があるけれど、それ以上に質が悪いような。

 

何も感じないっていちばんよくないんですね。嫌だったなとか思えばまだリアルなのに、物凄く嫌だったわけではないところが、いかにもな興味のなさを想像させて、そういうのはなんだかなあ。
すっぽかす度胸のある子どもではなかったはずだから(ここで真面目な子だったからとは言いません)提出はすべて期限内にしているはずだけれど出来栄えはいかほどだったのか。
子供の頃って、確かに存在したはずなのに、それはもう自分とは思えないくらいどこか遠い部分でもあってたまに戸惑います。
そうかと思えばくだらないひとことは願ってもいないのに心に焼き付いていたりするのに、どうしてだろう。いい悪いではないけれど無責任な程に記憶がないと自分のことなのに戸惑ってしまう。
まあ覚えていたところでさして面白い「何か」があったわけではないと思います。
大方、言葉にはできない感覚ばかり残してしまった気がして、そういう順序立てて言葉にしたら面白くなれる可能性のある部分がすぱっと抜けてしまっているのです。
特にものすごく嫌なことがあったわけではなくて、大切に見えるのかわからない部分ばかり選別したせいで記憶の箱の中に納まりきれなかっただけかと。
未だに特に感慨もないのですが、こういう話題になると困るということを夏の終わりに繰り返すわけですね。
念のため、記憶にも残らないくらい簡単に終えることができてしまったとか、そういう類の記憶のなさではないです。むしろそれくらい優秀だったらよかったのにな。

 

今年の夏はいくつかの花火と、かき氷と、ひまわり畑と、ひとつも実がならなかったプチトマトの思い出。
印象深いです。
人生で初めてまじめに育てようとしたトマトが一粒もならないって!
気持ちばかり先走って大切に大切に、思いばかり鬱陶しいくらい大切にしてきたのに、一粒たりとも実らないって!
これ、一生忘れないだろうな……。
おかげで嫌でも少し野菜のことを調べる機会ができたので、悪いことばかりではないですが。
来年はこの反省を生かしてもう一度……。
それにしても、わたしは実らないトマトというものを初めて見ました。
子供の頃から数えきれないくらい祖母の家のトマトを見てきたけれど、トマトって実らないものなのですね。

 

畑に種ぶちまけとけば勝手に芽が出て枝葉を伸ばして花を咲かせたり実らせたり……とか、当たり前だと思っていたことを違うと突き付けられ、心に潜む怠惰を叱咤された衝撃。
あれがよくなかたったのか、これがよくなかったのかという想像。
想像の先の想像、気を張り巡らし、手間を惜しまず気を抜かず、いちにちいちにちを重ねていくことの先に実るもの……。
なんだか自分が恥ずかしくなりました。
意識はしているつもりでも、気付かされることは沢山ありますね。

 

とても悲しかったけれど、今わたしに必要な気づきだった気もしました。
そして物事は往々にして簡単にはうまくいかないという。
よくできた言葉だなあとかいつの時代も変わらなかったのかなとか、作り話の世界のようなことが身に降りかかったり実際に経験すると、へえ、とただ感心してしまいます。
ちまちま落ち込んだりすることも減りました。
落ち込んでも一週間で薄れ、一か月で痛みがなくなり、一年も経てば記憶に残っているかも危ういことに心を痛めていると(自分に対してのことに限る)この先持たないなあと思い始めてから、よし気にするのをやめようと思ったら大して気にもしなくなった夏。
どんなに気をつけても起きてしまう種類の小さな失敗(自分に対しての)は、生きている限り避けようがない、と割り切ることにした夏。
現代の若者は失敗をおそれ……なんたらという記事を読んでからふんふんと思っていたけれど、しっかり自分も現代のワカモノになりきっていて。
わたしの場合は恥をかきたくないとかそういう種類の失敗を恐れていたわけではないのですが、勿体ないとか無駄はない方がいいとか気付けば小さくぽつぽつと、でも、それだって無駄を無駄としちゃあおしまいよね、ということでしょうか。無駄を経験せずに無駄の感覚などわかるはずもないのでした。無駄なことでもいいじゃないって普段思っていても無意識にこうなっているところがポイントですね。大きな反発ではなく、呼吸と呼吸の間のため息くらい無意識。

 

避けて通れないものを避けようとするからつらくなるままで、もっと流れに身を委ねたい心境になりました。
よくも悪くも歳を重ねてきたという部分もあるのか、小さなことに心を震わせることが億劫になったり(これ役者的には結構アウトな感じですが)針が左右にぶんぶんふれることをどうとも思わなかった頃から比べ、そういうぶれにえらく疲労を感じるようになりました。
安定、はよくもあり悪くもありますね。
ただ、本当に針を揺らす場面で正しく動かすために壊れるような動きを控えるようにする、という意味ではいいのかとも思います。
機械より単純ではないだろうと思うので。万能とはむしろ真逆で、だからこそここぞという時のために、正しく使う時のために。過信はしてはいけなくて、どんなに思い込んでも時間の流れと共にあらゆる機器が古び、錆びて動きが悪くなるのはどうしようもないことのような気がします。認めるのも勇気、というかなるべくそういう判断はフラットにできるように生きていきたいのですが、きっと難しいんだろうな。

 

正しさを考えるとまずは自分を信じることが難しくなりますが……。というか信じてはいけない気がしてしまう。

 

他。
芸術にももろもろ触れ合い、夏は終わる。
言葉でも断定ではないしそこにも想像の余地はあるけれど、言葉以上に遥かに無限の想像をさせてくれる表現のものは好きです。
きっと高圧的なものを表現されていたとしても、そうならない良さがある、と思います。そこに緊張感があっても、震撼させられても、どこかまろやか。
曖昧ではないのに、不思議ですね。
せっかくの言葉が言葉故に多分な想像力で捻じ曲げられて本心が伝わらなくなることなんて往々にしてありそうだからそれよりも初めから絶対に本心がすべて伝わるはずもない表現方法というのは優しい。言葉も交わさず面識もないはずなのにあんなに心の中を覗かせてもらっている気持ちになってしまうのはどうしてなのでしょうね。

 

素敵な夏でした。
さあ秋は何をしよう。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。