夏が終わる

わたしの中では夏は八月までと決まっています。
もちろん八月が終わった途端にスイッチを押したように秋が訪れるわけではないのですが、気持ち的な問題です。
主に影響があることと言えば服装くらいですが、あまりにも真夏っぽい格好はしないようになり、秋へシフト。

 

夏の間、わたしは散歩を日が沈んでから(大抵は夜に)しているのですが、ここ数日徐々に日が沈んでからの空気に秋の気配が含まれているのを感じていました。
昼間はまだまだ結構暑かったりするのですが、日が沈むとそこには確かに季節の移ろいが。
ああ地球ってちゃんとまわってるんだな、と当たり前のことを思いながら歩く道の脇にはススキがゆらゆら揺れていて、こんなところもああ秋だなと。

 

子供の頃、夏休みというのは一番長くて特別なお休みだったはずなのに、そういえば夏休みの宿題とかどんなだったけかなと記憶をさかのぼってみても何も浮かんでこないことに気付きました。さっさと終わらせる派とぎりぎり派の論争?があるけれど、それ以上に質が悪いような。

 

何も感じないっていちばんよくないんですね。嫌だったなとか思えばまだリアルなのに、物凄く嫌だったわけではないところが、いかにもな興味のなさを想像させて、そういうのはなんだかなあ。
すっぽかす度胸のある子どもではなかったはずだから(ここで真面目な子だったからとは言いません)提出はすべて期限内にしているはずだけれど出来栄えはいかほどだったのか。
子供の頃って、確かに存在したはずなのに、それはもう自分とは思えないくらいどこか遠い部分でもあってたまに戸惑います。
そうかと思えばくだらないひとことは願ってもいないのに心に焼き付いていたりするのに、どうしてだろう。いい悪いではないけれど無責任な程に記憶がないと自分のことなのに戸惑ってしまう。
まあ覚えていたところでさして面白い「何か」があったわけではないと思います。
大方、言葉にはできない感覚ばかり残してしまった気がして、そういう順序立てて言葉にしたら面白くなれる可能性のある部分がすぱっと抜けてしまっているのです。
特にものすごく嫌なことがあったわけではなくて、大切に見えるのかわからない部分ばかり選別したせいで記憶の箱の中に納まりきれなかっただけかと。
未だに特に感慨もないのですが、こういう話題になると困るということを夏の終わりに繰り返すわけですね。
念のため、記憶にも残らないくらい簡単に終えることができてしまったとか、そういう類の記憶のなさではないです。むしろそれくらい優秀だったらよかったのにな。

 

今年の夏はいくつかの花火と、かき氷と、ひまわり畑と、ひとつも実がならなかったプチトマトの思い出。
印象深いです。
人生で初めてまじめに育てようとしたトマトが一粒もならないって!
気持ちばかり先走って大切に大切に、思いばかり鬱陶しいくらい大切にしてきたのに、一粒たりとも実らないって!
これ、一生忘れないだろうな……。
おかげで嫌でも少し野菜のことを調べる機会ができたので、悪いことばかりではないですが。
来年はこの反省を生かしてもう一度……。
それにしても、わたしは実らないトマトというものを初めて見ました。
子供の頃から数えきれないくらい祖母の家のトマトを見てきたけれど、トマトって実らないものなのですね。

 

畑に種ぶちまけとけば勝手に芽が出て枝葉を伸ばして花を咲かせたり実らせたり……とか、当たり前だと思っていたことを違うと突き付けられ、心に潜む怠惰を叱咤された衝撃。
あれがよくなかたったのか、これがよくなかったのかという想像。
想像の先の想像、気を張り巡らし、手間を惜しまず気を抜かず、いちにちいちにちを重ねていくことの先に実るもの……。
なんだか自分が恥ずかしくなりました。
意識はしているつもりでも、気付かされることは沢山ありますね。

 

とても悲しかったけれど、今わたしに必要な気づきだった気もしました。
そして物事は往々にして簡単にはうまくいかないという。
よくできた言葉だなあとかいつの時代も変わらなかったのかなとか、作り話の世界のようなことが身に降りかかったり実際に経験すると、へえ、とただ感心してしまいます。
ちまちま落ち込んだりすることも減りました。
落ち込んでも一週間で薄れ、一か月で痛みがなくなり、一年も経てば記憶に残っているかも危ういことに心を痛めていると(自分に対してのことに限る)この先持たないなあと思い始めてから、よし気にするのをやめようと思ったら大して気にもしなくなった夏。
どんなに気をつけても起きてしまう種類の小さな失敗(自分に対しての)は、生きている限り避けようがない、と割り切ることにした夏。
現代の若者は失敗をおそれ……なんたらという記事を読んでからふんふんと思っていたけれど、しっかり自分も現代のワカモノになりきっていて。
わたしの場合は恥をかきたくないとかそういう種類の失敗を恐れていたわけではないのですが、勿体ないとか無駄はない方がいいとか気付けば小さくぽつぽつと、でも、それだって無駄を無駄としちゃあおしまいよね、ということでしょうか。無駄を経験せずに無駄の感覚などわかるはずもないのでした。無駄なことでもいいじゃないって普段思っていても無意識にこうなっているところがポイントですね。大きな反発ではなく、呼吸と呼吸の間のため息くらい無意識。

 

避けて通れないものを避けようとするからつらくなるままで、もっと流れに身を委ねたい心境になりました。
よくも悪くも歳を重ねてきたという部分もあるのか、小さなことに心を震わせることが億劫になったり(これ役者的には結構アウトな感じですが)針が左右にぶんぶんふれることをどうとも思わなかった頃から比べ、そういうぶれにえらく疲労を感じるようになりました。
安定、はよくもあり悪くもありますね。
ただ、本当に針を揺らす場面で正しく動かすために壊れるような動きを控えるようにする、という意味ではいいのかとも思います。
機械より単純ではないだろうと思うので。万能とはむしろ真逆で、だからこそここぞという時のために、正しく使う時のために。過信はしてはいけなくて、どんなに思い込んでも時間の流れと共にあらゆる機器が古び、錆びて動きが悪くなるのはどうしようもないことのような気がします。認めるのも勇気、というかなるべくそういう判断はフラットにできるように生きていきたいのですが、きっと難しいんだろうな。

 

正しさを考えるとまずは自分を信じることが難しくなりますが……。というか信じてはいけない気がしてしまう。

 

他。
芸術にももろもろ触れ合い、夏は終わる。
言葉でも断定ではないしそこにも想像の余地はあるけれど、言葉以上に遥かに無限の想像をさせてくれる表現のものは好きです。
きっと高圧的なものを表現されていたとしても、そうならない良さがある、と思います。そこに緊張感があっても、震撼させられても、どこかまろやか。
曖昧ではないのに、不思議ですね。
せっかくの言葉が言葉故に多分な想像力で捻じ曲げられて本心が伝わらなくなることなんて往々にしてありそうだからそれよりも初めから絶対に本心がすべて伝わるはずもない表現方法というのは優しい。言葉も交わさず面識もないはずなのにあんなに心の中を覗かせてもらっている気持ちになってしまうのはどうしてなのでしょうね。

 

素敵な夏でした。
さあ秋は何をしよう。

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。