いつもと違う春

去年の反省を生かして、トマトの苗を買いに行ったら流石にまだ売られておらず。
来月からだそうです。というわけで保険的に種をまきました。

 

上手くいけばこのまま種から育てたトマト、上手くいかなくても苗を買うという二度目のチャンス。
ちょっと狡い気もしますが、今年こそどうにかトマトの実がなっているところを見てみたいものです。
そしていい報告をできるとよいのですが……。

 

 

 

今年の春は少し違った過ごし方をしてみようと思いました。

 

 

成長と共に去年まで着ることができた服を着れなくなっていたようなイメージで、服ではないけれど、そうやって気が付けば少ししっくりこなくなることがあって。
それは良いとか悪いとかで片付けられる変化ではないのですが、人生の中の移ろいにはつきものなのでしょう。
いつもと少し違う春を過ごしてみたくなったのです。唐突に、雪の下から昨日はなかった何かの芽がぽんと出てきたみたいに突然に。

 

春には毎年桜を楽しみにはしていましたが、大きく言えばそれくらいで。
でももう少し、生きること全体で見て、もっと違った過ごし方をしてみたいと思いました。
人生にはいつからか、常にやりたいことやほしいものがあって、それが前に進む原動力になっていたのは確かで、そうしなければどこか立っていられないかのような感覚があったのですが、それが知らないうちに心のどこかに綻びを生じさせるというか。見えない部分ができてしまう原因になっていたり。
勢いも大事だけれど、走れば歩く時よりも景色のひとつひとつをじっくり見ることはできず、そういう余裕のなさがふと自分に足りないものを訴えかけてきたりする。
……ということにもなかなか気づけなかったりするものですが。

 

小さな綻びが原因で、少しずつ広がっていったものに気付いた時には足が止まっているっていう。
ずれたものによって終わる時ってくるものなんですよね。きっと。
糸の端が切れて、少しずつ解けていって、途中くらいだとまだ使うことに支障はなくて気付かないんですけど、ある日「あっ」って思った時にはもうだいぶ解けてしまっていて修理しないと使えない状況になっているポーチとか服の裾とか。

 

私はとても酷使することが好きなようです。
気に入ったものを使い続けて。
きっと、もっと休ませながら交互に使ったりすれば長持ちするのに、わかっていても一番好きな一番使いやすいものを使い倒してしまう。
大事にしてないわけではないのですが、そうやってすぐに痛めてしまったりするのです。そして壊れた時にようやく「使いすぎてしまった」ことに気付く。
ってことを何度も繰り返してきたので性分なのでしょう。仕方ないです。ずっとずっと直せないので、きっとこれからもまたそうしてしまうのでしょう。
もう仕方ないなと思っています。

 

何が言いたいのかさっぱりわかりませんが、猪突猛進でそのための道具やなんかを酷使しまくってしまった自分を反省し、メンテナンスをしようと思い立ったわけです(たぶん)
性分なので本当はそのままやっぱりがんがん進みたくてうずうずしているのですが、機材が大破してしまっては元も子もないので、ぐっとこらえて。

 

まあ人生はまだ長い(といいな)ので、たまには違った春があってもよいでしょう。というところです。
まだ寒い時に友達とお花見に行こうかという話をしました。
毎年歩きながら一人で花見はしていますが、人とやるようなお花見はしたことがないので、もしそれが現実になったら人生初かもしれないお花見らしいお花見ですね。
行くかわからないのに、もう少ししたらお花見にぴったりなお弁当の練習などしてみようかと思っています。
実行されなくても、自分のごはんのために使うのでまあいいんです。
どうですか? まるでわたしらしくない春です。普通にのほほんとお花見なんて、それも誰かと。想像も……あんましたことなかったな。
そういう景色からは何が見えるのでしょうか。今から楽しみにしています。

 

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)