構成するもの

生と死は切っても切り離せないものだと思います。
生きているものはいつか絶対に死んでしまう時が来るし、死んでしまう可能性のあるものは生きているからこそです。

 

 

ですが、客観的ならまだしも自分自身の死ということはどこか漠然としていて、そう考えることではない気がします。
誰にも知ることのできないことなので、当然と言えば当然です。大多数の人が普段からいつ訪れるかわからないもののことを考えているわけにはいきません。
ですが、いつか絶対に訪れるものであるという現実は変わらず実際にはすぐそこにあるのです。
ある種切っては切り離せないものを漠然とした恐怖で考えずにいることはできないと思いました。

 

死について考えてみると、呼応して生も強く浮き上がる。

 

切っては切り離せないことだからかな、と思います。
死について考えると、セットで生についても考えざるを得なくなります。
結果、生きることについても今一度考えることになるような気がしました。

 

生まれた時から死に向かっていってしまいますが、重要視するのは死という結果ではなく、その過程であると考える。
結果は皆同じなのです。それぞれ誰一人として同じにはならないのはその過程のみ。
最終的な終え方、ももちろん今はブームで(?)考える機会も多くなっている世の中のような気がしますが、過程は遥かに長いのです。

 

有限を意識することで生まれる強さ。

 

迷うことや、尻込みすることや、どうせだめだろうと諦めることなど人生の中では大小含めれば数えきれないくらい起こるかと思いますが、どうせ一世紀の間にそのすべてが長い歴史の中に消えていくのだと思えば、それらの99パーセントは即座に実行される方に移されると思います。
一週間や一か月や一、二年の間のことで考えれば失敗した時やなんかにかいた恥を笑われたり、バカにされたり、自分で気にしてしまったりと嫌な想像が豊かに働くかもしれませんが、数十年経てば自分以外の人は余程のことがなければ忘れているでしょうし、自分だってわかりません。
多く見積もっても一世紀もすればそもそも当事者もすべて誰ももういないのです。

 

現実今目の前にあるとどうしようもない大変なことに思えるかもしれませんが、広い視野で見てみようとすると、本当に小さいことであることの方が多い気がします。
生きているからこそ生まれてくるものにはそれに近い寿命のようなものがあって、いつか消えてしまうことが大体数なのだと思います。

 

そう思うと怖くないですよね?

 

また、挑戦できることや、やれることもすべて生きている間だけのことなので迷っている暇はないのです。
限りがあるからこそ強くなれる。
永遠だったらいつまでもできると思ってそれこそ永遠に挑戦できないかもしれませんね。

 

 

対極のものがあるからバランスが保たれている。何かを考える時は対極にあるものも意識する。

 

物事を形作るのはひとつの要素ではないと思います。見えなくても対極のものが存在して、だからそういうものが存在したり概念が成り立ったり。
正反対のものなので、ものによっては受け入れられないものもあるかもしれませんが、そういうことを意識するだけでも大分変化があるような気がします。
極端に、いい人、悪い人、というのは乱暴ですが、人の中にはレベルの違うそれらがどちらも存在しているのだと思います。
これは数字で言えることではないのですけれど……たとえば、何かを選んだら何かを選ばないことになることだって、これに当てはまってしまうことも内容によってはありえます。だから言葉で厳密には言えないのですが……。

 

そういうものを深いところから捉えるような気持ちで見てみると、ただ否定的にしか見られなかったものにもそれ以外の感情を抱くことも出てくるような気がします。
よい、悪い、というくくりではなく、もっと微妙なところの話です。
絶対的に理解できないことももちろん存在すると思います。ですが、その枠がもう少し広がると言いますか……。
これは、いろいろな人間を演じたりするときにとても有効だと思いました。
人を形成する要素は、簡単に白か黒かでで表現できることではないし、そのどちらも内包しながら迷う、というような矛盾を抱えていることの方が多い気がしたからです。

 

結局は人間が愛しい。

 

 

ということですね。人間という生き物が好きじゃなきゃ演じられないなと思いました。

 

許すことや認めることや受け入れること、そういうことには多分ある種の強さが必要です。
そしてその強さというのは、きっと限りある時間を意識することの中から生まれる部分もあるのではないかと。

 

今現実に見えているものでも、どんなに強く見えても、所詮は限られている儚いものなのです。
そう思うと、同じものの見え方が少し変わるのではないでしょうか。
見えているものをどうしても見てしまうから、なかなか有限とか意識できないのですけれど、そう考えると結構いろいろなものが愛しく思えます。
そしてそう思うことは生きていることの幸福の中に含まれるのではないかと。

 

ある程度まで生きてくると、死に触れることも多くなり自ずと考える時間も増え、見えてくるものも多くなります。
終わりで、マイナスでしかないと思っていたことの中から強さを引き出すのもまた、生きている故なのかもしれないと思いました。
生きている限り前を向く、先へ進むしかないのですね。

 

素敵な発見も沢山あります。
一言では表せない複雑さが、身体に入って重くなるわけではなく単に肉体的な老化も進んでいるわけですが。
なんか、そういうことを考える時期なのかなと思いました。

 

でも、生きている身体って本当によくできているのだと思います。
子供の頃のまま軽やかだったらそう考えられただろうか……ないな。と、いや私だけかもしれませんが。

 

子供の頃から人生の半分くらい演じることを考えてきて、なんかもう生きることという軸の中に半分組み込まれてしまっているような気もしますが。
終わりまで続くそういう軸が今、枝も含め全体を震わせているような感覚。
恐ろしいと結論付けてしまうのは楽だけれど、その中にだってきっと対極の、構成している一部があるはずで、だからこそ見える喜びや幸福なんかの種があるのだろうと思います。気付かないふりをするのも楽だけれど、生きるという事をもっと真剣に考えなければいけないのかもしれないと思いました。

 

先へいくにはいくつかのこういうポイントが人生には用意されているのでしょうね。
難しい……。でもそれさえ生きている故のことなのでしょう。
ひとつひとつ探し、考え、受け入れたり答えを見つけたりしていく。終わりにはどういう色や形の何ができあがるのでしょうか。

 

 

では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。


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