今年の初め頃におみくじで人生初凶を引いたとかいう話をしたと思ったのですが。
その後、引いたおみくじは吉で、先日引いたおみくじは人生初大吉でした。
そもそもおみくじとかあまり引かない人生でしたけど、流石に大吉や凶は印象が強いから引いていたら覚えているはずで、覚えていないということは人生初だと思われるのですが、今年のふり幅の広さ!
凶から大吉へ。
そもそも、凶に書かれていたこともあっていたというか的確だった気がするので単純な結果に対してどうこう思うよりも「凄いな凶って本当にあるんだな」という思いの方が多かったのですが、このふり幅にこれまでの人生になかった結果が二度も入り込んでくるとなんだかすごいなと。
とりあえずですね、人生は悪い時ばかりじゃないし、いい時ばかりでもない。
流転。
悪いことが続いてもそれが永遠に続くわけじゃないからそれで落ち込むのも違うし、いいことが続いてもそれが永遠に続くわけじゃないから無駄に喜んだりそれで見失うのも違う。と思うのであります。落ち込みすぎず、喜びすぎず、すべては一時的なことであって、流れの中の今でしかない。
実際フラットの難しさ。
そういうふうにわたしは生きたい。
……実際ブレブレですが。
想像、でしかないけれど、そう思うとすべてが大したことではないように思えなくもない。
だって、もう何十年も人生を重ねた方を見ているとどなたもどっしりとしているから。
経験や乗り越えたものは確実に自分の中に蓄積されて、血肉になっていく。
きっとその頃にはわたしも同じように思うのだろう、となんとなくの想像はできる。想像でしかないけれど。
そう思うと小さなことに右往左往する自分が滑稽に見えなくもない。どうせ数十年後は欠片すら覚えていないようなことばかりで。
実際にたった一か月後すら覚えていなかったりもする。
そういう類の小さなこと。大切だけれど、気にしていても仕方ないんだろうなということ。きっと生きていくということはそういうことの積み重ねでもあるから。
樹齢数百年の銀杏の木を見たり、すっかり変わった街の風景を見たり。
その落差。
気付けば街も人も変わっていて。
ひとりで置いていかれたような気分になる。実際は自分がとろくさいだけなんですけれど。
十年前の街の風景を重ねて。
立ち方がわからなくなりました。浦島太郎。
流されたり溺れたりしていることに気付けなかっただけだということに気付く十年後。
そういうことがわかるようになるのが、生きる時間を重ねた証拠だと気付く十年後。
少し窮屈で息苦しくて、でも幸福なことだと思いました。
もがいても窒息しても、それはそれで生きることの醍醐味のような気もします。
沢山のものがあって、でも何も欲しいものがなかったので、十年前はなかったお店でお茶して帰りました。
新しいものを知る幸福と、知った故に比較して、いいものが減ってしまう不幸を考えるとどちらがいいのだろうと悩む。
受け取り方の問題? 心の問題? でも誤魔化してもいいことはないし、よくないことを知ることに怯えて前進するのをやめるのは違う。……と思う。
結局がぶがぶ溺れて、元のところへ帰る。
上手く流れに身を任せるのは難しいようです。
太陽の光が気持ちいいから、銀杏の葉を見にいこう。
では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。