すっかり目には青葉の時季ですね。
再び日傘の出番、ということで昨年の夏ぶりに日傘を差して出かけました。
ゴールデンウィークですが、特に普段と変わったことはないのでせめてと気になっていたお店に食事に行ったのみです。
やりたいことははっきりしていますが、あまり遊びたいという欲求がないので、大型連休も地味になりがちです。
少しばかり家族に付き合って雑貨や服などのお店にも行ったのですが、商品がどうこうというより時代の流れや人の動きが気になってしまい、何も覚えていない(商品のことは)
街の中に突っ立って人を見ているのは結構好きです。
外食はあまり好きではないので自主的にはほとんどしないのですが、たまに行くと神様のおかげか大抵隣の席や近くの席で面白い話が聞こえるので行くたびに、やっぱたまには外食しないとこういう話聞けないよなあと思ったり(盗み聞きしてるわけじゃないんですけど普通に大きい声でしゃべってると席が近いからどうしても聞こえてしまうのごめんなさいね)
二人組だったらその二人がどういう関係性か、なんでその話になった、話の前後などをついつい考えてしまい同じお仕事関係の人といるとそういう話で盛り上がります。
役者あるあるじゃないでしょうか。兎に角進む妄想、設定、物語! みたいな。
外見的な特徴や、所作や仕草などから性格やその人自身のことは恐ろしく漏れてしまっている気がする。
特徴とか特にないしという話はよく聞きますが、特徴がない人は本当はいないのだなあとじっと見ていると特に感じます。同じ人間なんていないので当たり前なのですけれどね。
基本的に自分のことなんて一瞬で忘れてくれるだろうと思って生きているのでそういう生き方ですが、こうしてみるとちょっと気を付けよう~とたまには思います。
それでも自由ですけれど。
話は戻りそういう話で派生はしても平気で一時間とか二時間とか盛り上がってしまいます。日常にありふれるストーリー。
何もなくても外に出てみよう! ←って自分に言わなきゃいけない。
頭でっかちになってはいけないな、とは常々思います。
人生の中で言えばまだ若輩なのですが、それでもこう徐々に知ったかぶったり思い込んだりということは挟まってくるようになってしまうわけで、無意識が怖いんです。
人生死ぬまで勉強。兎に角謙虚に、人生の先輩の話だけではなく若い人の話も聞く!(自分も若いけど)物事は柔軟に考える、などなど自分自身に言い聞かせることが増えてきました。
ついつい知識として入れたり勉強だけすればそれで凄くやったつもりになってしまうことも、というところから更に一段階二段階と進まなければものにはならないわけで、そういう部分がむしろ大変なことで簡単にはできないことで骨の折れると言いますが、血を滲ませる部分なのかもしれませんが、そういう部分を乗り越えてでしか見えない得られない先の景色は人生の醍醐味なのかもしれません。
先延ばしにしてはいけない、と今週のブログにも同じテーマで書かれていました、わたし自身も怠け者なので常々意識していることですが、人生をある程度生きてくるとひしひしと実感する日々です。
ふつう(がなにかわからないけど)だからこそ、特別な才能がないからこそ、この地味地味さが必要不可欠なのですが。
知識、見識、胆識
やはりただ知っているだけではなにものにもなりませんね。
自分で味わったものがようやく身になる気がします。
あらゆる人間(それ以外も)を演じる以上、汚さを受け入れること(それ以上)を必要とされること、という事実がじわじわとのしかかりそういうものが生きた日と共にじわじわと、日に日に増していくのですが、とても人間という生き物を愛する仕事なんだと感じるようになりました。
表面に一切出ていないように見える人も沢山いますが(もしくは本当に全くそういうものがない人もいるのかもしれない)人間であるが故に持つマイナスと言われている部分の感情など、ただその事実だけ見れば、汚いことだったり、醜いことだったり、愚かなことだったりするのかもしれませんが、それが人間の別の面での美しさ(というと語弊があるかもしれませんが)であるというか、人間を人間たらしめているものなのかもしれません。
実際そういう感情だったりを自分に向けられたりすれば、いい気持ちのする人の方が少ないでしょうけれど、(というか絶対悲しくなったり、苦しくなったり、怒りが湧いたりするでしょうけれど)でも、わたしはそういう一端をあからさまに放出する人が決して嫌いではないのだと思います。いや、好きだって思ったこともないのですが、多分そういう面を隠さないということに逆に安心するというか。
演じるという生き方を選ぶということは、常々人間としての本質の部分をどこまでも掘り下げなければならないということで、人間の悩みはほぼ対人関係だなんて言われてるのにまた面倒なこと(←)をやっているものだと思わなくもないですが、どうしたって、人に対してどういう思いを抱いている人だって結局人間である以上人と関わらずには生きていけないのだなと思うと、なかなかに愛しく、尊い生き方であるとも思うのでした。
目の前のいちごパフェ。
息を顰め、鼻につきそうなくらいいちごを近づけて一ミリもないだろういちごの産毛を観察し、種の色や大きさや、いちごの香りやカットの断面や、それぞれの向きを確かめ、
間に挟まれている生クリームの種類や、シャーベットの触感や、その並びや単品と、ハーモニーの差と、その間の高揚と、温度の変化と、中身が減ることによって徐々にぶるかるスプーンとグラスの音色に耳を澄ませ……て、ひとつひとつ確認しながら少しでも感覚や感情を留めて生かそうとするというか、たとえですけれど、すべてが常に一瞬一瞬を、どこか一ミリでも生かせるのじゃないかというふうに生きる生き方。
情報量は多いし、たまに面倒になるし疲れる(←これ楽しいと思えてたら最高。常に思えたらわたしはもうそれだけでいいな天才だなと思います)けれどそれでもやっぱりそういう生き方が嫌いにはなれません。
すべてが美しいと思えるわけではきっとないけれど、たまには適当にあー、おいしかったおわり、とか言ってみたいとか思うけれど、どんなものでも何かしらの感覚を与える、それを感じられたらもうそれだけでひとつの素敵なことだと思えるというのは、もしかしたら今の生き方をしているおかげなのかもしれないと思うとやはりよかったと思うのでした。
天気がいいので、外の空気を吸う時間は設けます。
自分でも育てていますが最近は外のお花を見てまわるのが好きです。
もう後半ですが皆さま、素敵なゴールデンウィークをお過ごしください。