懐かしい場所に行ってきました。
子供の頃、うろうろしてた都内の地域。
あれから多分いろいろなところが変わってしまったのだろうけれど、自分の印象が強い場所が変わっていないとあんまし変わった気もしない。
変わったのは私の方かもしれない。
考え方や感じ方の変化で、同じものを見ても違ったものに見えてしまうということもきっとあるし。
変わらないことはきっと何もないのでしょうけれど、随分長い長い長い時間が流れたような気がして。
全体を通して考えてみると短いような気もするけれど、こうしてみると人生って結構長いのかなとも思ったりして。
時間というのは形がないから不思議に変化するものです。
とにもかくにも、あの頃と違うとすれば一番の違いはそれなりに、子供のお小遣いよりはお金を持っているわけで、
あの頃は想像もできなかったお店に入れるわけで、新しい場所に行ったような気持ちになったけれど、知らない故の無邪気さとかはなくしてるから。
空もどんよりしてたりすると尚更、なんだか少し窮屈にも感じたわけです。
が、いろいろな建物や人を見ていろいろ想像を膨らませるのは楽しかった。ひとりだと想像しまくってても迷惑をかけないからいいです。
写真は物とか風景しか撮れないですが。
あの頃の自分が今の自分くらいの時間をどう想像していたかって思い出そうとしてみましたが、上手くいかなかった。
きっと想像もできないくらい先のことだと思っていたのでしょうね。
その想像できない未来がもう今なんですけど……。
初心に帰るも、昔すぎて初心以前の問題でした。
帰りの電車でおじいちゃんと孫ちゃんの仲良くお話している様子を見る。
おじいちゃんの語り掛ける声のトーンとか、柔らかい笑みとか、眺めているうちにじわじわきた。
小さな孫ちゃんに話すことで、難しい言葉はないし、シンプルだけれど、表情や声のトーンや速度や触れ方は大切で、それですべてが伝わる。
誰かを演じるっていう表現の仕方は、声だけじゃなくて姿を出す場合にはそういうものが含まれるから、そういうすべてで表現をしようと日々ずっと努力してきたつもりだけど、伝え方が様々なら受け取り方も様々で、という問題に今更ながら今一度向き合っているような気がしている最近でした。
すべての人に伝わる伝え方なんて万能なやり方はきっとないし、すべての人を楽しませる表現やお芝居もきっとないのですけれど。
わかっていても感じる無力感とか、やるせなさとか。いや、あってもそんなのつまらないってわかっているのですけれど。
言葉にならないそういう曖昧な表現に対して、どうしてもリアルに伝えやすいから言葉があるのでしょうけれど。
言葉も使っていながらどこか避けていたような、表現のやり方で今一度言葉というのを大切にしなければいけないと思いました。
使い方も、それこそ伝え方もあるけれど、言葉には言葉にならない表現よりはずっと共通性がありますしね。
なんだか、そういうものに向き合わなきゃいけない新年度が近付いてきている予感です。
寒いけれど、確実に春が来ているのです。
だって、外を歩けば梅の香りと、夜の闇にぼんやりと浮かぶ白梅の白。
それとわたしはそんなに印象が強かった思い出はないのになぜかこの時季になると学生時代に、春のある場面みたいな光景を想像した授業をやった時のことを思い出すのです。春といえばこれですよ、のひとつ。
少しは成長できたのでしょうか。
では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。