辛抱と我慢と忍耐

▼日本語には同義語・同意語・類義語というものがあります。

▼これらの大意としては「意味が同じ言葉」となるかと思います。しかし、別の表記ですから、ニュアンスだったり、若干の意味の差異があったりもします。

▼「辛抱」と「我慢」と「忍耐」という言葉があります。この3語は『「何か」に耐える』という意味がありますが…それぞれ少しずつ意味が異なると感じています。

2016-08-15b

▼これはあくまで個人の思いですが・・・
『我慢』は短期的に行う事で、生理的な欲求や物理的なことに対して用いると思っています。例えば「おしっこを我慢する」などなど。
『辛抱』は比較的長い時間、自らが置かれる状況や環境に対して行うように感じます。例えば、「辛い生活もあと少しの辛抱だ」などなど。
『忍耐』とは精神的な事柄に対して行う事で、自分の心の辛さに対して耐えることではないか、と感じています。例えば「辛い出来事だけど忍耐して挑む」などなど。

▼この3語はどこかニュアンスが違うものです。ですので、ぼくは我慢はあまり良くなけれども、辛抱や忍耐はある程度必要だ、と思うことが有ります。あくまでも個人的な意見です。これをどれも同じ、全く同じものとして捉えてしまったら・・・社会がうまく回らないような気がしまし、人間の進歩がなくなるような気がします。

▼お芝居の世界でも上記の3語と同じように同じような意味でもニュアンスが少しずつ違うものがあります。

▼またまた個人的な見解でもありますし、新和座共通の概念でもありますが…「稽古」と「練習」と「レッスン」は違うと考えています。新和座では・・・
『稽古』は作品を創るための作業で、他人の為に行うこと。
『練習』は稽古で行ったことを身に入れるべく繰り返すこと。自分の為にすること。
『レッスン』は自分の技量を上げる為に、教えを請うこと。
としています。これは俳優もスタッフも同じです。やっていることは似ていても、目的と目標、対象が少しずつ違います。

▼こうした言葉のニュアンスの違いを理解して言葉を使うのと、そうでないのとでは…仕事の進み方、進捗度合いが違ってくるとぼくは考えています。

▼大事なのは、どの言葉を使うか、ではなく、人間の行動には必ず目標があり、原因があって、結果があるわけで、その違いをしっかりと認識して取り組む事なのだと感じています。


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